フランスに行ったことのある人が、フランス語で、「英語で話していいですか」と聞けば、たいていウイ(YES)と返ってくる。
その後でなら英語で自由に話ができる。しかし、いきなり英語で話しかけると、無視されるか下手すると怒り出すよ、と教えてくれた。
そのとき、フーンとうなずきながら、
「それは特別な人で、普通の人は通じるのに通じさせないなんてことはないだろう」とたかをくくっていた。
実際、それを守らずに、実証することになった。
それなりに上品な店だったが、女店員に英語で問いかけたところ、相手はえらい剣幕で怒り出してしまったのだ。
「いったいあんたは何様なのさ。自分の国と間違えちゃあいけないよ。
フランスにきて、突然外国語で話しかけるなんて、とんでもない。
それも、えりにえって私に向かって英語とは。
そんな言葉に対応しなきゃいけない仕事の給料なんて私はもらってないよ。
それとも、私に恥をかかす気なのかい。冗談じゃない!」
フランス語でまくしたてられたので、実はまったく分からないが、そんなことでも言っていたのだろう。
驚くというより、あっけにとられてしまった。周りのフランス人は、まったく知らん振り。とりつくしまがない。
本人にとっても、めったにないことだったのか、興奮がなかなかおさまらない。
だいぶたって、彼女の気持ちがちょっと落ち着いたところで、身振り手まねで買い物することはできたが。
国際空港前で待っていたタクシーの運転手でさえ、料金を英語では言ってくれず、結局、紙に書いてくれた。
こちらは、ほんとうに英語がだめだったらしい。不思議な感じがする。
対照的なのが、ドイツの田舎の店である。
町外れの小さなスーパーマーケットの肉売り場で、「ここは何時にしまるのか」と聞いたら、
なんとか応えようとした後で、分からないからと奥から人を呼び、二人で相談しながら応えてくれた。
英語が通じるかどうかということ以前に、対応する気持ちがずいぶん違うようである。
さて、逆に日本にいて、外国人に英語で話しかけられたとしよう。
かなり多くの日本人が、逃げてしまうのではなかろうか。これは実際に通じる自信がないから仕方ないことではある。
しかし、もし外国人に「英語ができますか」と聞かれれば、「a little」などといって、一応聞こうかという気になるかもしれない。
相手が自分に気を使って丁寧に話してくれそうだとなれば、ほっとして、とりあえず聞いてあげようか、と思える。
よその国に行って、いきなり他の国の言葉で話しかけることは、そう考えてみれば、あまり感心できることではなさそうだ。
その国の言葉を知らなくても、せめて、英語でMay I speak to you in English? ぐらいには気を遣った方がよさそうである。
もっとも、店で買い物するような時に、そこまで気を遣うことはないようにも思うが。
フランス人の悪口っぽくなったが、けっして彼らが、高慢で不親切というわけではなく、
我々が思うより、はるかに誇り高く、見方によればシャイなのだと思う。
つまり、誰にでも気やすくいこうという、けじめのない人(と少しへりくだったとして)には、
あまりとっつきのよい社会ではないのかもしれない。
ドイツでは、親切にしてもらった。
仕事のパートナーや、そうなるかもしれない人たちが丁寧に扱ってくれるのはもちろんであるが、街中でも何度もお世話になった。
電車に乗ってミュンヘンの空港へ向かう途中で乗り換える必要があった。
あまり人が利用しない経路である。電車からホームに降りたところで、すぐに、「どこへ行くんだ」と聞かれた。
「飛行場」と応えると、「いったん外へ出て向こうのホームに渡りなさい」という。
おかしな作りの駅の外に出たところで、しばらく躊躇していると、その中年の男性が、振り返って戻ってきた。
そして、「そちらに歩けばホームだよ」と、また教えて、急いで歩いていった。にこりともしない、まじめな顔だった。
ホームに出たら、今度は女性がどこへ行くのか聞き、「このホームには2つの列車が連結してくるから、
ここらで待ちなさい」と教えて、自分は別方向だからとホームの先の方へ歩いていった。
そのうち、その女性が足早に寄ってきて、「あと2分ぐらいで電車がきますよ」、と伝えて戻っていった。
無人駅なので、その二人がいなければ、かなり苦労したと思う。
それを心配して、彼らは地理に不案内らしく見えた東洋人の私たちに親切にしてくれたのだろう。
しかし、人の少ないホームで、偶然に親切な人にめぐり合ったのではなく、
この国にはそんなおせっかいなほど親切な人たちが多いようだ。
他の場所で道を聞いたりしたときも、愛想はよくないがみんな親切だった。
誰もが誰に対しても自然体で親切にする。その感覚には、今は少なくなった一昔前の日本人と通じるところがある。
そんなドイツを感じた。
もちろん、ロシア人全般のことをいうつもりはない。しかし、そのこだわりに驚いた。
仕事の合間に1日だけ空いた土曜日。お城見物の観光バスで隣に乗り合わせたのがロシア人3人組。
世界の16カ国が合同で建設している国際宇宙ステーションに関する部品を商売にしているとかで、
それに参加している日本にも出かけたことがあるという。
「すごい仕事だね」と持ち上げたら、「そうだ」と誇らしげに応えたほどに高いプライドを持っている。
1週間のビジネスの後、この日に観光し、夜遅い飛行機便でモスクワに帰るという。
城への登山口にある大きなレストランでも同じテーブルに着いた。
各自がメニューを見て思い思いに注文するスタイルで、後の行程を考えて、私はアルコールを控えることにした。
ロシア人グループのリーダーと見られる50歳くらいの女性はビールを頼んだらしい。運ばれてきたビンのビールを見て、彼女は怒り出した。「ドラフトつまり生を私は頼んだのに、これは違うじゃないの!」、というのだ。
しばらくのやりとりの後、グラスに注がれ泡のたったビールが来た。
それを、「これはほんとに生なのね!」と、2,3回確認すると、ウェイターは「ちょっと待ってくれ」と引っ込み、
その後しばらくして引き取りにきた。どうやら、ビンから注いだのがばれることを恐れたらしい。今度はツアーの添乗員も一緒である。
だいぶたって、私たちが食事を終えて勘定を頼んだころに、いかにも生ビールらしい泡がたったグラスが運ばれてきた。
書き入れ時の忙しい時間に生ビールの樽を出してきてなんとか間に合わせたらしい。
件(くだん)の女性は、フンといった表情で、ニコリともしない。
厳しい交渉の末、とうとう正論の私が勝ち取ったという顔である。おお、こわ。
そのために同僚の2人を巻き込んで、城の見物時間を短縮してまでの、このこだわりはいったい何なんだろう。
いや、我々日本人がものごとにこだわらなすぎるのか。
シビアなビジネス・ネゴの実演を直近で見学させていただいて、感謝すべきかもしれない。
フランスのリヨンでは、多くの黒人を見かけた。
アフリカの多くの国がフランス語を公用語にするほど、植民地支配の歴史を持つだけあって、そちらから移ってきている人達も多い。
中近東かららしいアジア人も大勢見かけた。しかし日本を含む東アジアの人は少ない。
観光シーズンではないので、ビジネス以外の訪問者は少ないのだろう。
米国と違って、東アジアからヨーロッパへの距離は遠いと感じた。世界中にいると言われる中国人もあまりみかけない。
博物館が多いことで有名なので、外国人も多いと思われるミュンヘンも同様である。
クリスマス屋台のならぶ広場では数組の東アジア人を見かけたが、ここはリヨンと違って黒人も少なく、ほとんど白人で占められている。
ミュンヘンより北に150kmほどのレーゲンスブルグは、ドナウ川にかかるドイツ最古の石橋が魅力的な古都である。
ここはぼとんど白人で占められている。ゆったりとした農地が広がる農業地帯にあり、大半が地元で農業を続けている人達なのだろう。
ドイツの緯度は、北海道よりずっと北、サハリンにあたる。
気温が低く、また農業以外の産業があまりない土地であり、南からの外国人には暮らしにくそうではある。
日本に比べると所得水準が低く、その意味でも外国人が流入しにくいのだろう。
ただ、我々には隣接する東欧諸国のオーストリアやチェコなどからの白人との区別はつかない。
農場などでは、そういう人が雇われているのかもしれない。ただ、ドイツでは東ドイツを併合して経済が停滞し、
高い失業率になっていることなどを考えると、農業に外国人が入り込む余裕はあまりなさそうではある。
フランス、リヨンのカールフールでレジ待ちしていたら、硬そうな中折帽をかぶり背筋を伸ばした、いかにも紳士といういでたちの中年男性が、列の少し前にいた。カゴいっぱいの食料品の他に、何かのお祝いに使いそうな花束などを抱えている。
計算が終わったところで、店員が何度もクレジットカードを機械に通すが、うまくいかない。他のレジ係も手伝ったり、他の機械で使ってみたり、いろいろやってみること10分あまり。
その間、顔色を変えずに我慢強く待っていた紳士は、店員にギブアップされて、「今日は大事な日だったのに」といった調子で、少し不満を述べた後、買うはずだったものを全部そのままにして、帰っていった。
合計しても5000円以下とみたが、それだけの現金も持ち合わせていなかったようだ。合理的に考えれば、有り金でいくらかでも買っていきそうなものだが、自分の落ち度ではないにせよ、カードが使えなかったことを屈辱と考えたのかもしれない。
それに、閉店時間の20時を過ぎていて、見かけの平静さとは裏腹さに、気力も失せてしまったのかもしれない。
最後にほんの少し肩をすぼめる仕草をして、しかたないという風で出て行った。
今の日本では、品格の大事さを重んじなくなっているが、昔は違った。
最後まで紳士らしさを通した彼の姿に、明治生まれで高潔を通した祖父の面影が重なった。
(こなみ もりよし)