当時は,軽度から中程度の難聴児はちょっと発達が遅れているといった程度に見られる場合が多く,
そのために学齢前の検査などで難聴であると分かってあわてることが多かったそうです。
難聴とはっきりしている我が子の場合でも,保育園の声の大きい主任保母の先生は,卒園まで「私の声によく答えるから普通じゃないの」
と言って,難聴であることをあまり意識しなかったぐらいです。
したがって,就学前に聴覚相談に行く幼児,児童は限られていました。
わが子の場合は,風邪の熱に伴って突然高度の難聴が出たことで診断を受け,その後軽度になっても検査を続けて聴力を把握してきました。
そのために,早くから医師や指導員(言語療法士)に相談することになったのは,不幸中の幸いでした。
医者でも相談機関でも,比較的少ないケースとして,子どもの様子に合わせて試行錯誤をしながら応対していただきました。
しかし,健常者でも2,3歳頃の情報量が生涯に大きく影響すると言われるので,
幼児期の聴覚教育には両親とも強い関心を持たざるを得ませんでした。
そこで,専門家(医師,聴覚指導教室,聾学校)に相談してアドバイスを受け,また自分たちでも試行錯誤の工夫を重ねてきました。
難聴児には,子どもの長期にわたる発達を考慮した継続的な指導が必要です。
そこで,医師と指導者ができるだけ変わらないように気をつけました。
特に医師は転勤先の病院をずっと追いかけて,現在でも聴力検査と指導を受け続けています。
医師の移動先: 千葉大病院・療育センター → 国立成東病院 → 県立こども病院
医師の診断と指導が落ち着いたところで,紹介を受けて千葉市立療育センターの聴覚指導教室やまびこルームに通所するようになりました。
必要なら母親が仕事をやめようかとまで考えましたが,保育所で注意深く療育してもらえることで,
療育センター通所は月1,2回程度でも十分ということになりました。
そこで,主に父親の土曜休日を利用し,両親がまれに休みをとることで続けることができました。
また,就学前には,1月に1,2回,土曜日に聾学校の幼児教室に通いました(付き添いの父親は,
部屋の隅で居眠りしていることが多かったようですが)。
また,保育所の保母さんたちもとても協力的で,保母,やまびこの指導員(言語療法士)または聾学校教師,保護者の3者の情報交換日誌
を作って,みなさんにたくさん書いて頂きました。
当時,大網白里町のあさび保育園から千葉の療育センターまで保母さん達が出向いて相談を受けたりもしていただきました。
交換日記の中には,たとえば両親の気負いと緊張を和らげてくれるような記述などが見られます。
気張りすぎが子どもに伝わると,余計なストレスを与えてしまいますよ,少し余裕を持って子どもに接してください,
といったようなことです。びっしり書かれた300ページを超えるその日誌は,今では記録というより親子の宝物です。
聴力をできる限り測定していただいて記録を残し,常に状態を把握してきました。
それによると,長い間には,わずかずつですが聴力が低下した時期があります。
とりまく人達にそれが気づかれにくいのは,本人が周囲の状況を把握する力をつけて,聴力の低下をカバーしてきているからでしょう。
難聴が軽いほど,できるだけ自然の音に近くするために,音質にこだわった補聴器が必要だと言われます。
補聴器は,当時は機種による性能の差が大きかったため,常に本人にとって最もよく性能を発揮できるものを選定していただき,
調整に特に気をつけてもらうようにしました。
また,幼児期から常に話せる言葉や聞き取れる言葉の範囲と特徴を捉えて記録してきました。
それによって,聞き取りにくい音を拾い出し,発音の練習に役立たせました。
音や言葉に関することだけでなく,明るい性格を持てるように,また,自信を持って積極的に生きられるように, 普通の生活の中で快活に育てることを心がけました。
音に興味が持てるように音楽をよく聞かせました。 また,ピアノの先生にむしろ歌唱ができるように力を入れてもらい,残りの時間をピアノの練習にあてました。 本人は小さい頃から聾学校の先生方に,「(難聴でも)こんなにピアノが弾けるんだねえ」,とほめられてうれしがっていました。 そういったことが自信につながり,今も歌唱やピアノ演奏,音楽鑑賞が好きなようです。
就学前にも図書館に通うことが多かったのですが,小学生のときには,土曜の帰りなどに図書館に行かせることが多く, 母親とよく待ち合わせて帰りました。読書がとても好きな子に育ってくれたと思います。 また,文章を書くのも好きで,手紙や長文のレポートなどを,あまり苦にしないで書いているようです。
最初の聴力低下が高熱を発したときに起こり,その後も風邪を引くたびに急激な聴力低下と緩やかな回復を繰り返しました。
そこで,夜更かしなどを厳禁し,風邪を引かせないように気をつけました。
だからといって,甘やかすことにならないように心がけたつもりです。
小学校の低学年だったと思いますが,体力増強のために水泳教室に通わせ始めました。
しかし,中耳炎になりかけたために,これはやめることにしました。
長い目でみれば過保護な対応だったかもしれませんが,当時はとても心配しました。
小さいときから補聴器をつけていて,幸い,本人が補聴器を嫌がることは一度もありませんでした。
むしろ,髪を後ろに結んだりして,補聴器が目立つようにしていることがよくありました。
親としては複雑な気持ちでしたが,黙って見守りました。
補聴器を目立つように付けていれば,相手がそれを見て分かりやすく話してくれると,自然に学んだようです。
これについては,親が子供から教えられました。
補聴器のせいでからかわれるようなこともあったようですが,なんとか乗り越えたそうです。
古くは,補聴器は目立たないようにというのが,一般的な考え方でした。
補聴器購入の際に,新しいのは小さくて目立ちませんよとか,大きくなれば髪で隠れるので目立ちませんよなどと言われました。
当時はそんなものかなと思っていましたが,これは,あまり意味のあることではなく,むしろ偏見に基づくものだったように思います。
最近では,日本でも目立たない肌色でなく,カラフルな補聴器が出てきました。
社会全体が種々の障害を受容して偏見がなくなり,補聴器の着用でもファンション性を主張するのがあたりまえになる時代も近いようです。
よく,「いつか,難聴であることで悩み,親と衝突する時期があるので覚悟して」,と助言されました。 いくらか曲折はありましたが,大過なくここまでこれたのは,多くの人たちに温かく支えられてきたからだと思います。 比較的軽いとはいえ,難聴のわが子が多くの試練をかいくぐって順調に育ち,ここまで明るい性格を持つようになったことに, 感慨深いものを感じます。 これからも,実社会に出てからまだまだ多くの課題があるかと思いますが,元気でがんばってくれることを信じています。
(こなみ もりよし)