明和7年~安政3年(1770~1856)幕末の藩政改革を進言した宇和島藩士。伊藤右膳の次男。幼名喜太郎、通り名は嘉膳のち軍平。隠居して鶴翁。実名は盛成。
安永8年(1779)小波司馬の養子として家督を継ぎ、133石6斗。児小姓にはじまり京都詰、長柄頭、近習、元締役、浦奉行、鉄砲頭、勘定奉行、弓頭を歴任・兼務している。
文化9年(1812)の萩森騒動以後、藩財政の再建案を提唱し、大部の「存慮書」を提出している。倹約や借金だけでなく、殖産興業を目指した。これらの改革案は、当初は受け入れられず葬られたかに見えたが、宗紀の時代に推進されて実を結んでいる。
経済改革の内容については、津村寿夫著「宇和島藩経済史」などに詳しい。この著で、その成果は、「かくて、(宇和島)藩は7代目の宗紀に至って初めて立ち直ったのである。弘化元(1844)年に引退して宗城に家督を譲った時、保名小判5万両を擁していたという。・・・宗城はこの経済力を背景として幕末維新の風雲に乗じ大きな活躍をしたのである。」と結ばれている。
また彼は按摩の技術にもすぐれ,宗紀の子供達を療治して,裃と感謝の直言を受けている。
隠居後は鶴翁と称して弟子を指導した。天保8年(1837)嫡男の友弥(のち軍平、砲術指南役)に家督を譲り隠居。安政3年死去。
死去の前年、藩主宗城を通じて当時の水戸藩主徳川斉昭に軍備について進言してそれを褒められ、宗城から感状と記念の品を与えられている。墓は宇和島市の泰平寺にある。
小波家は元福島正則家臣家で、宇和島藩での始祖は、寛永元年に柳生又右衛門の肝煎を受けて、初代秀宗に200石で仕えた。小波軍平の通り名は、4代盛春(家老の末席に連なり500石)、6代盛時(養子、家老稲井家次男、若年で逝去)、8代盛成(標記の本人、養子続きで石高減)、9代盛行(砲術指南役)の4人が用いている。9代の子に、絵師として明治維新時に京都御所前の守備の様子を描いた小波南洋魚青がいる。
(こなみ もりよし)