>> ”向かい風も力に”の技術屋人生・・まだまだこれからです    小波盛佳

これは,企業の技術者として歩いてきた道のりについて、その側面を記すものです。
2003年10月03日  
2009年01月01日改 

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目次

1. 20代(助走のとき:自分は何を)
2. 30代(充実の時:無我夢中)
3. 40代(変遷のとき:多くの分野を経験)
4. 50代(仕上げの時:さらに新しい世界を)
中間点で振り返ってみると

■  1. 20代(助走のとき:自分は何を)

1973年、修士卒で企業の粉体技術研究所への配属を約束されて入社した。 国内外ともに大型のケミカルプラントの建設が続いている隆盛期であった。 粉体機器とプロセスの研究開発をと張り切っていたが、わずか2年後に、経営上の都合で粉体技術研究所の人員は大幅に縮小された。 そして、自分がそこで研究生活を送るという生涯設計は露と消えた。

 しかし、プロセス設計もおもしろい。 旧ソビエト連邦向けの粉体貯蔵輸送設備など、最初から2件のまとまったプラントを上司について担当することができ、自信がついた。 そこでは、主に新しいプロセス設計に力を注ぎ、そのままプロジェクトエンジニアとして計画し、試運転までを一貫して行った。 新しい知見を得ることが楽しくて、プラントを完成させるたびに技術資料としてまとめていった。

 そのかたわらで趣味としてプロセス設計のためのプログラムを作った。 当時はパソコンはなく、プログラムをRUNさせてデバッグリストを得るのには、やむをえず就業時間を使ったが、後はすべて時間外に行った。 その時の上司は、有り難いことに多少の業務時間への食い込みを黙認し見守ってくれた。 この人は、古い世代の自分もやりたかったのを、うらやましく見ていたという。 言語は当時の技術系用のフォートランで、できあがった空気輸送などのためのプログラムを、会社での準スタンダードとして利用してもらった。

■  2. 30代(充実の時:無我夢中)

パソコンが出始めて、自宅では設計プログラム作成に没頭した。 大学時代の恩師から誘いがあり、その自作のプログラムを「粉屋のためのプログラム」として雑誌に載せるようになった。 そのまま、その雑誌の編集委員にもなった。この編集委員は、途中2年ほどのブランクをはさんで今も続けている。 当時、会社から近い東大敷地内での編集委員会を、私の終業に合わせて夕方6時からに変更してもらった。現在は土曜日に開いている。 もちろん、仕事外で交通費自弁のボランティアである。粉体工学会東京談話会の幹事会も同様である。

 本業のプラント設計では、かなりまとまった仕事を1年に1件程度担当することが多く、それぞれ思い入れを持って担当してきた。 多忙ではあっても精神的には比較的安定した仕事ができた。

■  3. 40代(変遷のとき:多くの分野を経験)

当時、自分の周りを見まわしたところ、50歳を超えた人たちは実質的に管理する側に回り、実務から離れてしまうということに気づいた。 つまり、技術者としての人生が今にも終わってしまいそうな気がした。 そこで、この10年は、技術者として悔いを残さないようにやれるだけやろうと思った。

 この頃、技術開発を充実させることになり、強化されたその部署に配属された。 そこで2つのテーマについて計画を練り、実験装置を発注した。 しかし、テストを始めないうちに、大きな粉体プラントの仕事が始まり、それにプロセス担当として組み込まれることになった。 朝令暮改は日常茶飯事である。

 そのプラントのエンジニアリングの途中からはコンピュータシステムのとりまとめのために、 会社初のプラントSE(システムエンジニア)として仕事にあたることになった。 それに関する本もほとんどないため手探りだったが、1年半ほどで完成させた。 システム構築の仕様打ち合わせでは、顧客と午前9時から夜食をとらずに午前1時頃までという検討会議を何度も行った。 ちまたには、満足に動かないプラントシステムのうわさが多い頃で、周りは心配したようだが、 結果的に満足できるところまで完成させることができた。

 しかしこれが、私の技術屋人生を曲折させるきっかけとなった。 この仕事を見ていた電気計装課長がその課のイメージを一新してシステム部に昇格させようと考え、 その一員に私をプラントSEとして組み込もうと説得にきた。 そこで5年の間、電気屋の中で私がただ一人、定型的でないプラントシステムやAI(人工知能)ソフトのシステムなどを担当した。 その間に、技術士(機械部門/化学機械:粉体のハンドリング)の資格を得たが、 休日もあまりとれない忙しさの中で、夜10時からの2時間と通勤電車内が主な勉強時間だった。

 40代後半に当時伸張著しい半導体分野の部門長から突然声を掛けられて、その分野をまとめる課長になった。 当初ウエハーの洗浄・エッチング装置の設計製作が中心だったが、その後薬液供給の設備部門が加えられた。 輸出が半分という部署で、それ自体を楽しめることもあり英会話教室にずいぶん投資した。 結果的に3年間に米国10回を含む15回の海外出張に出かけ、国内もあちこち飛び回って忙しかった。 米国から導入した機械のトラブルでFAXのやりとりを100通ほど続けたことで、まがりなりにも通じる英文を書くことに自信を持った。 せっかくだからと英検を受け、準1級は落ちたが2級には合格した。 その時、受験生の娘と一緒に英文法を勉強し直したのはその後の自信につながっている。

■  4. 50代(仕上げの時:さらに新しい世界を)

会社ではまた技術開発・教育部門を充実させることになり、その部署ができて配属された。 50歳になると、予想した以上に定年が間近に見えてくる。 しかし、そう早く朽ちるわけにはいかない。 それどころか、もっともっと力を発揮できるはずである。 まず急務とされた技術教育の体系づくりに力を注いだ。 同時に社内技術コンサルタントとして調査検討を行い、新しい技術開発のテーマに取り組んだ。 その中で、大学との技術開発の共同研究が契機となり、博士号取得を目指すことにした。 3年かかって取得し、一息いたところで新規事業探索の部署ができ、それを任されることになった。 現在探索した環境関連のテーマを追って事業化の活動を行っている。 そして、定年までの最後の2年間、奇しくも入社時の説明で口約束された?技術開発研究所の所長として勤めることになり、それを まっとうできそうである。

■  中間点で振り返ってみると

振り返れば、技術や開発に関する新しい方針が出るとその部署に配属され、専門性までも翻弄されることが続いてきた。 一つの専門に没頭できなかったことはある意味では残念だが、他方、多くのことを幅広くかつ専門性を発揮しながら経験してきたのは、得難いことでもある。 そして、これは特異なことではなく、時代が変わっていく現代の流れの中では必然的であったようにも思える。 これからも、いろいろな風を楽しみながら技術を活かして生きていきたい。

 そんな中で、これまでの技術者生活を通じて、著作と講演は、所属した専門に関するものに加えて、軸足としての粉体技術に関するものも休まず行ってきた。 それらは現在までに150件を超えていて、自分のひとつのアイデンティティになっている。

 好きな言葉
   「経験とは何に出会ったではなく、その時どう考え何をしたかである。」

(こなみ もりよし)



*これからだ!の想いを込めて、タイトルを”風まかせ”でなく”向かい風も力に”に変えました。

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