人前で発表する,いわゆるプレゼンテーションでは,そのための訓練,経験がものをいうと考えられがちである。
たしかに,そのために社内での訓練も実施しているわけで,
経験を積んだ人がよいプレゼンテーションをすることは当然である。
しかし,ちょっと気を付けなければいけないのは,そのための準備が十分であるかどうかである。
受け手に合わせ,主張したい内容に沿って周到な準備を重ね,少し背伸びした勉強をするのが大事なことである。
その結果ここまでやったぞという自信が持てれば,不安から来る緊張感から開放され,自由に説明ができる。
練習をしておけば,次の場面を想定しながら流れるように話を進めていくことができる。
その自信ある態度に対して,受け手は当然,信頼を寄せてくる。
他人と仕事を進めることにおいて与信性は大事なキーワードである。
その信を得る最も大きな糧が、そういった常に上に向かおうとするたゆまぬ技術の習得にあるのではないか。
プレゼンテーションを行う度に,プレゼンター自身が技術を高め,さらに自信を深めていって欲しい。
借り物の技術でのうのうとしていてはいけない。
ある会議の講演の中で,「アメリカ人は話がうまいので気を付けろ」という警句があった。
確かに,彼らは話がうまい。
聞いていてうっとりするほど信頼感を与えてくれる場合が多い。
No problem!と不安を消してくれる。しかし具体的な内容になると,詳細部分でまったく検討がなされていないことが多い。
規格品や標準品を買うのでなく,特別注文の要素の強い商談では,特にそれが目立つ。
そういったことが,結局は「アメリカ人は誠実さに欠ける」という悪評につながっている。
トラブルを防ぐためには,詳細にわたって,これはOKか,NOかと,具体的な質問を重ねて返事を積み上げていくしかない。
例えばDOUBLE CHECKしておくという返事だけで終わりにしないで,そのためのチェックリストの提示を求め,
それにチェックマークを入れさせるといった態度が必要である。
日本人にも,最近同様な傾向が目立ってきた。コミュニケーションはエンジニアのみならず,職業人の命をつなぐ血管である。
これまで以上に,他社との関わりや会社内での仕事の流れの中で,「きっちり確認」を積み上げていく態度を身につけて,
仕事を完遂するように心がけていかなくてはならないだろう。
話がうますぎるのも困るが,うまく伝えない人にも困ることが多い。
一つは,言葉が少ないこと。言わなくても相手が分かっていると信じているのか。シャイで言いそびれてしまうのか。それともそんなことを気にもしないのか。しかし,たいていのことは言葉に出さないと分からない。何十年も連れ添って,なんだ君はそんなことを疑問に思っていたのかということもある。それに,聞いていないことを勝手に解釈するととんでもない間違いをすることも多い。
もう一つは,説明が適切でないこと。言葉はたくさん出るが,肝心な説明になってない。「言語明瞭,意味不明」と言われたのは昔の総理大臣だったっけ。これは,日本人は形式的な話を聞かされることが多いために,話す側にもどうせ相手が真剣に聞いていないといった慢心があることにも原因があろう。また,できるだけ自分の話に人を惹きつけておきたいという気持ちがこれを支えているようにも思う。もっと簡潔にしゃべってくれれば,みんな余裕の時間ができるのに。
前者は若ものに,後者は年寄りにありがちな傾向である。短時間で的確に話し,それをしっかり聞き取るという訓練を,意識的にしていきたい。
数学で習った「必要十分条件」は,言葉による記述にも適用される。特に,ある対象に関して定義を示す文や契約の内容を決める文など,厳密性を要求される場合にはその心がけが必須である。ところが,一般の文書では必要十分ではうまくいかないことが多い。心理的に読む気にならないような所に書いておいて,「書いてあるじゃないですか」では,不親切のそしりを免れない。ビジネスでは意図的にそういうことをする場合もあるようだが,できるだけそんなアンフェアなことは避けたい。
で,一般的には冗長度が大事になる。たとえば,目次や索引などは情報としては本来重複していて無駄である。しかし,なければ極めて不便。どうやったら受け手にストレスを与えずにうまく伝えられるか。プレゼンテーションでは常にその原点に立つ必要がある。少なくとも,不必要不十分条件をもって説明することだけは避けたい。
2000年6月,ウィンブルドンテニスのビーナス・ウィリアムズが優勝したゲームをテレビで見ていて強い印象を受けた。
強さ以上に精神的な落ち着きがとても20歳とは思えず,感心した。
ゲームの流れが相手側にある時に極めて平静な表情でいられる。
厳しい場面でポイントを取られても動じない。逆にうまくいった時は大きく喜ぶ。気持ちの切り替えが速いと解説者も驚いていた。
個人的な感情として,これを「憎たらしい!」とはねつけてしまう人も多いようだ。
しかし,彼らのやっているのは,遊びとしてのゲームではない。全身全霊を傾けて打ち込む仕事である。
そこに,新人にみられるような恥じらいやためらいがあっては,仕事は完遂できない。
彼女は常にプラス思考の熱意でゲームを展開させようと努力しているのだと思う。仕事への取り組みは,こうでありたい。
ある日本の会社の米国駐在員が赴任してまもなく冗談を飛ばすことに挑戦した。
レストランのウェイトレスが注文を取りに来たときに,2人目がMe too.と応えたので,
この人はMe three! と張り切って続けた。
しかし愛嬌を振りまいていたウェイトレスがきょとんとして注文を再度促してきた。
本人はこの冗談は受けないなあとがっかりした,という。
それを聞いて,私はこれには文化の問題が含まれていると解釈した。
欧米では個性を抑えることがないために,人に合わせてオーダーすることがほとんどないようだ。
つまり,ウェイトレスとしては,メニューにはたくさんの料理があるのに3人も同じものを注文するなんて考えられず,
冗談として理解できなかったのだと思う。
実は,この人は赴任当初,発音に無頓着でsuleeのような発音をしていたようで,
それがさらにウェイトレスを混乱させた理由ではないかと推測したが,
その後立派な現地のビジネスマンとして,英語を駆使して活躍している人にはそれは言えなかった。
ともあれ,日本人の「右へ倣え」主義は,いよいよ曲がり角にきている。
ビジネスや研究の世界では,明治維新の時と同様,新しい感覚を研いて自分たちの外の世界をウォッチングする必要性が
高まっている。
(こなみ もりよし)